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ギター、バンド、音楽について書いてみる

物持ちの良い僕は姉のギターをまだ持っている
ギターを練習したのは中学2年の終わり頃だったと思う。その1年ほど前から姉が持っていたヤマハのフォークギターを握りしめた途端に手から離れなくなってしまったのだ。ちょうど引っ越ししたばかりで中学を転校したこともあり、親しく遊べる友だちも少なかった僕にとっては朝から晩までずっと一緒に過ごす一番の親友ともいえる存在だったのだと思う。1ヶ月もしないうちにめぼしいコードを憶えてしまいニューミュージックの曲が並んでいる教則本の端々まで弾き倒しているうち新しい学校でも「おとなしそうだけど変なギター弾き」キャラが確立されたようで、おかげで79年頃の荒れた校風の中でも特にぐれたり虐められたりすることもなく過ごせたのだった。
高校に入ってからは友人から借りたレスポールに熱中しディストーションサウンドに朝から晩まで浸かった生活となった。1年の終わりにはテープレコーダー2台をピンポンして自作曲の録音をはじめ、高2からはピアノやシンセサイザーにも手を出し、ベースを練習しドラムスに手を出し友人らとバンドを組んで演奏したり、文化祭では便利屋的にハシゴしたりしていた。

「うふふ」ライブ。1985年頃、京都の拾得にて。

大学4年間は経済学部ならぬ軽音楽部に入学した気になっていて学内の練習スタジオで生活したようなものだった。京都市内のライブハウスにも何度か出たり、PA屋の真似事をしたり下宿ではずっとMTRを弄ってたりまったくの音楽三昧だった。

ところが卒業後、仕事に就いてからはぱったりと音楽から離れてしまう。時代はバブル絶頂期、ヒット音楽といえばダンサブルなシンセミュージックばかりでギターそのものが時代から飽きられていたのかもしれない。僕も仕事が忙しくてたまには部屋でギター弾いたりしたこともあったが、もう二度と人前で演奏することなんて無いんだろうなーなどと何となく達観していた20台前半なのであった。

同じく85年拾得にて。
シンセ弾きながらギター弾いて、しかもなんと化粧してたw
25歳で8年近く過ごした京都を離れ実家に戻ると、高校生のころたくさん曲を作った部屋がそのまま残されていたこともあり、また楽器に触れる時間が少し増えたのだけどそれでもバンドをやろうってほどのことはなかった。でも不思議な縁というか営業先の歯科技工士氏が「実はバンドをやろうと考えている」と声を掛けてくれ、再びギターを持ってステージに立つことに。たしか八代厚生会館前の野外ステージでBob MarleyのGet Up Stand Upだったと思う。いかん、これは癖になる、と思ったものだ。下の動画はその時の演奏ではないけど地元バンドが集まり飲み屋を借りて演奏した時の録画。

1994.8.20阿蘇アスペクタにて
ほどなく八代では有名だったアフロヘア姿のボーカリストTさんに声を掛けられ、彼のバンドでギターを弾き始めた。70年代ファンクを中心とした選曲で、月に何度か彼のお店(電器屋さん)の隣にある音楽スタジオ(そこの主がバンドのキーボーディストだったのだ)で練習し、夜のお店や誰かの結婚披露宴、地元音楽イベントなどで演奏したものだ。

もともと8ビートのロックやポップスばかりを演奏していた僕に16ビートのカッティングは新鮮なテーマだったこともあり、学生時代からずっと弾いているESPのテレキャスで自由に演奏させてもらっていた。考えてみればまだ26歳とかだったのだ。しかも独身だった。下の動画は八代のどこかのお店で演奏した時の動画。

昼間のリハーサル

30歳になる直前、阿蘇アスペクタで開催されるサマーラストファンタジーというイベントに出ることになった。今までと格段に違う観客数に僕らは奮い立ち、ほぼ毎日と言って良いほどスタジオに入って練習した。メンバーも増え、EW&Fなど演奏曲も以前より演奏技術を要求されるものとなった。妻が出産のために関東の実家に戻っていたこともあり僕は仕事そっちのけで毎日練習ばかりしていた。今回は今までの遊びではないんだ、って意気込みに圧倒されながらも8月20日ステージに立った時は「やっぱり音楽もいいもんだねー」なんて阿蘇の山々と花火を見ながら実感したものだった(そしてその翌日には息子が生まれた)。

リハーサル。バンドメンバーは8人になっていた。
ところが僕はそこで燃え尽きてしまった。やりきった感があったのかもしれない。翌年八代を出て熊本市内に引っ越したことも手伝ってまたバンドから遠ざかることになった。曲を作ることもなくなったし、CDを買うことさえめったになくなった。僕の興味はまた仕事に戻った。いや本当を言えば興味などではなかったのかもしれない。社長職を任され、社内外では毎週のように問題が持ち上がっては頭を悩まし、妻とは顔を合わせたら資金繰りの話ばかりといった生活になっていた時期だ(とはいっても夜中に市内の音楽系飲み屋に出没したりはしてたんだけど)。

2008年熊本市のTwo-Fiveでねこまた演奏
またバンドに戻ったのは意外にも東京で、しかもベーシストとしての再デビューだった。新しい会社を作り、親の始めた仕事に一応のケリをつけたあと僕は月に一度くらいは東京に通うようになっていた。そこで取引先の先生夫妻とバンドをやることになった。彼もギタリストだったので僕はベースを担当することになった。3人だけのバンドだったが上京するたびにスタジオに入り、曲を作っていく作業がとても楽しかった。何度か人前で演奏もした。僕は相変わらずギター弾き丸出しのベースを弾いたけど、これはMcCartneyスタイルなんだ、なんて誤魔化して自由に弾かせてもらっていた。2010年からはこのブログに書いたように4年にわたって東京に住み込んだので演奏する機会も多くなっていた。2011年には秋葉原のライブハウスを借り切ってライブも開催した(八代で最初に僕に声を掛けてくれた技工士氏とも演奏したのだった)。

その時のねこまた動画集。
http://takajournal.blog.so-net.ne.jp/2011-08-21-1

などと長々と書いてきたのですが、ここ数年はまた人前で演奏する機会も減り、たまには自宅でギターを弾いたり曲を作ったりもしたけど、主に酒を飲んで機嫌よく歌謡曲を唄い出す妻の伴奏役に徹していたのです。

ところが2014年8月、八代で昔のバンド仲間とたまたま飲みに言った先が地元で有名なアフロ氏が経営するライブバーであって、そこで「おー、久しぶりね−、こんど一緒に演奏しようか」と声を掛けられたことで、20年ぶりに鍛えられることになるのでありました。というわけで、つづく。

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